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泥の道

 空が墨色に暮れ、心にぽこっとあの人の顔が浮かんだ。

 コーヒーを見つめていて、静かな何も映らない水面に私は「あの人の走るスピード」と名付けた。そしてはっとして、それを飲み込んだ。

 ねえ、気が付いて。

 

 「夜の海のアザラシになりたい。」そう言って彼女は世界中のジェットコースターを地面に埋めた。バリバリ、ガラガラ、バタン、ドスッ、ヒューン、ベチョ。連日の大盛況に期待は外れ、彼女は次に夜間営業屋外リンクのスケート場の氷を黒くした。シュウーッ、ヒューッ、ドテ、ベチョ。バスケットボールの試合そのものを黒くもした。バンバン、シューッ、シュ。キュキュ。ドタドタドタ。しかしやはりそれらも失敗した。それからはただウナギを飼ってみたり黒くなるまで桃を置したりしたが、やはりうまくいかなかった。

「それってなんでなん?大きめの交差点の真ん中でぼんやりするとかではあかんの?」私たちは教会で知り合った。私は教会の前で桃を売っていて、彼女は誰かの追悼ミサに来ていた。教会から出て来たとき、彼女は分厚い雲を睨んでいた。

「うーん。まあ。」

「ほな、うちら二人で、相撲するっていうのはどう?」

「そんな感じやねんけど・・。」

「じゃ、えっと、一緒に氷が溶けるのを待とう。」

 

『スプーンの研究』という本を読み終えた彼女が提案して、私たちは拾った冷蔵庫に陶器で作ったレコードを詰めていった。忘れられたシュウマイの歌でも作るのかと思ったがそうではなく、彼女は冷蔵庫ごとそれを黒い鯉に変え、次々町に放した。私はある日銀の坂道を駆け上がり、喫茶店に向かった。丘の上では一人の青年が十字のブーメランで遊んでいた。店に入ろうとしたとき、突風が吹き私は、帰り損なった人格であるそのブーメランをキャッチしてしまった。いつの間にか青年とブーメランは消え、私はそれからなんとなくカボチャを食べられなくなった。

鯉は逆さまにした双眼鏡を頭に付けて泳ぎ回った。双眼鏡を覗いた人みなひどく怒った。「何も見えない。」それでも鯉の数は増えていき、人々は闇ばかりを覗き込んだ。私たちは鯉の餌を確保するため、宇宙船へと乗り込んだ。

ひどく幼い海に、延々と雪が降り続いていた。立入禁止の立て札を乗り越え、私たちは海に言葉を与え、大量のチョコレートを生産させた。月の大きさに丸め、周りに灰をまぶし、それが5個出来たところで私たちはそれをこっそりと鯉に送った。海は消え、後には灰が降り積もった。私たちは文明のある星に向かった。そこには原始の海保護区があった。そこには不思議な習慣があり、年に一度それぞれの自治体からアットランダムに人を10人選び、船に乗せて町を一周した。人々はそれを見て何か安心するようだった。


 

甲板の人たちはみな穏やかに話をしていた。私はその中の一人の青年を見た。この星の輝きの全ては、その人の瞳にあるのではないか、と思われた。船はすぐに行ってしまった。

「ここはやめよう、やっぱり厳しいわ。ちゃうとこいこ。」待ち合わせ場所で彼女はそう言った。「・・・うん。」私たちはそこからかなり離れた星へと出発した。灰チョコレートボールの生産は時間との戦いだった。闇の母星では人々が夢中になって鯉に見入っていた。

 

傍らでクッキーが大きなため息をついた。それくらい私たちは船内でおしゃべりをした。宇宙空間の移動はなかなか大変で、急に音がたくさん聞こえたり逆に全く聞こえなかったり、体がバラバラに分断されたりウインナーのように豚の腸につめられたような感じがしたりした。視界はほとんどが暗闇だった。それでも何故か意志の疎通に問題は無かった。 

「今度行く所ってさ、めちゃ魚、美味しんて。すごい高度の海もあって、そこでは息をしながら泳いだり出来んねんて。水中から恒星を見たら、水面から傘を持ったおばちゃんが怒りに来るから、そこでは明るい方は見たらあかんやて。なんでおばちゃんねやろな。」「恒星ってさ、どんな気持ちねやろな。多分真ん中におりすぎて自分が中心やとかわかれへんくてごっつい寂しいにゃろな。うちらおばちゃんになったら怒りに行ったろか。」「例えば太陽に?あすこには、誰もおらんよ。」「アイスクリーム売りに行こうや。」「誰もおらんて。」「マジックしに行こう。」「だあれおどかすねん。」「多分さ、絶対一人きりやと思っても、そんなことないよな。なんちゅうか、出会うよな、どっかで。」「病院行ったら?」「そうするわ。ちゅうかこれ、道間違ってるわ。あぶな、これ以上遠く行ったら、帰ったときにうちらだけおばあちゃんや。」「おばちゃん通り越して?しゃれにならんな。」

女向けの竜宮城なのかと思いきや、次に来た星は畑ばかりが広がっていた。原始の海は畑の中の大根にあった。私たちは大根一つ一つを盗んで回るという地味な作業を続けた。「お酒は?鯛やヒラメの舞い踊りは?」「誰も言うてへんやん、そんなこと。それにあんた、桃屋やろ。桃源郷や、いうたらここは。」「せやけど。」私たちは作業を終えると、海岸に向かった。砂浜に腰を下ろし、焚き火をした。そこでは初老の紳士が貝殻を集めていた。貝殻は周りを見ても全く見あたらなかったが、紳士はわけもなさそうに次々貝を見つけていた。貝はきらきらして美しかった。「例えば、あたしはここにおったらあかん、とか、そんな感じやな。」私は貝のお腹のまぶしさにくらくらして、うまく言葉を返すことが出来なかった。

 

祖国では少女が演説を始めていた。「映像の権威を壊したい。あの人の心を奪いたい。」彼女は明かりのない家の洗濯機に次々メトロノームを仕掛けていった。闇を見つめることに嬉々としていた人たちは、今度は体内に恋愛というリズムがあることに気が付き始めた。人々は石鹸で耳を作り、少女を国外へ追放した。

 

私は彼女を海底の砂に変え、星を立ち、教会へと帰ってきた。庭に瓶を埋めようとしたとき、結婚式が始まり、新郎と新婦が扉から出てきた。私は頭と背中が熱くなり、手の先が冷たくなった。新郎は、いつかの船の青年だった。それからどうしたのかどうしても思い出すことが出来ないのだが、とにかく私はひどくアザラシに憧れるようになり、裁判にかけられ、そして桃売りの女に出会った。

 

僕は銀の坂で、初めて彼女を見かけた。僕はとてもドキドキして、それでもなんとか声をかけようとがんばった。ある日ブーメランを飛ばしていて、また僕は彼女を見かけた。彼女はなんだかうわの空だった。僕がためらっていると風が吹いて、僕は想いに体ごと持って行かれてしまった。僕はずっと彼女についていった。船に乗って彼女の前を通り過ぎたりもしてみた。彼女は遠くばかりを見ていて、そしてすぐにいなくなった。彼女を見失うといつも暗闇が僕を襲った。僕はフォークをカチャカチャいわせたりシュウマイを食べたりしてまた彼女に会えるのを待った。僕は教会に持ち込まれたお菓子やドレスを処分する仕事をしていた。この町の人たちは爪や髪の毛のように、それらを嫌ったからだった。勿論それは自分の手を放れた物が誰かの目に触れるのを恐れてという意味でであり、それくらいここでは物の価値が異常だった。僕は暇なときよく泥の道へ行った。そこで一人で食器を作るのが僕の趣味だった。オードブルナイフフォーク、スープスプーン、バターナイフ、バタースプレッダー、バタークーラー、フィッシュナイフフォーク、ミートナイフフォーク、フルーツナイフフォーク、メロンスプーン、ティースプーン、アイスクリームスプーン、コーヒースプーン。デザート皿、8インチ皿、10インチ皿、スープ皿、パン皿、デミタスカップ、ソーサー。シャンパングラス、シェリーグラス、タンブラー、白ワイングラス、赤ワイングラス、その他。それに給仕や調理人が使う器具も加わり、それはなかなか大変な作業だった。

彼女を見失い、いったん帰ってきたある日、僕は洗濯機の上にメトロノームが置かれているのを見た。カチカチいうままに僕は、橋へと向かった。そこには大量の貝殻が飾られていて、僕はそれらをいくつか持って帰って食器の装飾に使った。それらはだんだん輝きを増した。螺鈿細工をしながら僕はいつかそれを彼女に贈ろうと思っていた。星空を見上げ、僕は彼女を捜した。雲は分厚く、しばらく捜索は諦めなければならなかった。

食器のデモンストレーションで僕は新郎を演じることになった。驚いたことに、教会の扉が空いたとき、彼女が地面にしゃがみ込んでいた。こちらに気づいた彼女は真っ青な顔をして、そしてそのまま意識不明になってしまった。彼女の不明の絶望を、僕は救うことが出来なかった。    終