彼女
彼女はどんな名前で呼んでも、いつも愛想良く返事をした。私はいつも適当に名前を考えて彼女の事を呼んでいた。それは面倒な事であったけれど、彼女に会う前にその日の名前を考えるのは楽しい事でもあり、彼女に会ってからずっとそんなことを続けていた。
そんなある日、私は彼女のことを「ジュンコちゃん」と呼んでみた。すると彼女の顔は一瞬でこわばり、持っていたスプーンを落としそうになった。私はとっさに他の名に換え、その場をやり過ごした。今まで色々な名前で、時には漫画のような名前で、彼女の事を呼んで来たけれど、そんな事は初めてだった。
それから数カ月が過ぎ、私は久しぶりに彼女の部屋を訪れる事になった。「女二人で、鍋でもどう?」と言う。「夏に鍋?」「そう。焼き肉じゃなくて鍋。ちょっとええ肉こうてん。」
私はビールを買って、彼女の部屋に行き、玄関のチャイムを鳴らした。返事が無く、私は勝手にドアを開けた。中になぜか人影はなく、鍋の用意だけがしてあった。おかしい、と思って部屋をよく見ると、隅のカーテンに人がくるまっているのが見えた。
しばらくじっとしていて、ごそごそと出て来ようとしたその時、私は
「ジュンコちゃん」
と言った。その人はカーテンにくるまったまま一瞬びくとし、カーテンをつかんでその場に座り込んでしまった。
私はそのまま部屋を出て、もう二度と彼女とは会わなかった。
なぜあの時あんな事を言ってしまったのかは、今になってみても良く分からない。特別いらいらしていたわけでもないし、彼女が嫌いだったわけでもない。とにかく私は、彼女を深く傷つけてしまい、そのまま連絡を絶ってしまった。
空き箱が捨てられなくなったのと、フェンスを掴む癖がついてしまったのは、今思えばそれからだったように思う。
フェンスは、最初所構わず見つけ次第近づいては一目分を握り、気分が落ち着けばまた歩き出す、と言う事をしていたのだけれど、そのうち「お気に入りのフェンス」と言うのが固定されてきた。家から駅の途中にある、ちょっとした溝の手前にある錆かかったフェンスで、ぎゅっと握った後いつも手のひらに少し錆の跡が付いた。そのフェンスのある場所は人通りも少なく、時々住宅情報の広告が掛けてある他は何も変化が無かった。私は毎朝フェンスを掴み、自分の手のひらを眺め、それから仕事に向かった。
とにかく引き出しという引き出しにはまず空き箱を詰め、その中に更に小さな箱を詰め、いかにたくさんの空き箱を収納するか、と言うことに何時間も熱中した。部屋の中は集めてきた空き箱ともともと引き出しの中にあった物でいっぱいになった。
そんなある日、私は駅でいつものように電車に乗り込もうとしていた。電車から降りてきた紳士とすれ違った瞬間、その紳士は
「空き箱」
と言い、そのままホームの人混みに消えて行った。
紳士
それはあまりに見事なまんまるで、僕は本当に、ちょっとみとれるくらいだった。
その場面がぱっと頭の後ろに現れ、沈黙し、僕はそいつと戦いを始める。僕に突然襲いかかるその映像に僕はしばらく息をのみ、気が付かないふりをし、それでも僕のすべてを奪ってしまい、もう消えてしまいたくなるちょっと手前で、僕は思う。「あれはなんやってんやろう。もうでも、しゃあなかってんや。や。でも、あん時ああしといたら。でも。」
突然さらりと現実が頭の後ろをなめて僕の目の前を真っ暗にし、僕はじっとしてそいつから逃げ、自分を消そうとし、今度は息まで止まりそうになり、そのうち意識が遠のき、いつの間にかいつもの生活に戻る。そして、またあの映像がよいしょ、とやって来る。
もうずっと、そんな事の繰り返しだった。きっと僕の中に、「映像ゲリラ」が住みついたのだ。あんな事が起こったのもきっとそいつの仕業なのだろう。いつまでも僕を襲い、息を止めようとし、そして気を抜かせ、またやって来る。こんなにきれいなマルを描けるのは、映像ゲリラしかいない。マルはマルでも、本当にまんまるなのだ。一瞬の迷いもなくきれいなマルを描いて進むのだから、僕なんかとても太刀打ち出来ない。完璧なマルは、とても美しい。人なんかが「美」と言うのは、案外こんな所から生まれているのかもしれない。僕は苦しくて、悲しいばっかりなのに。
ある日僕はまた、電車の中であの映像に襲われた。(あの事を思い出した、と言うより、あの映像に襲われた、と言った方があってる、と思う。)今度はもう、完全に息の根を止められそうになった。僕は苦しくなり、途中の駅で扉が開いた瞬間電車を降りた。住宅街にあるその駅で、朝は乗り込んでくる人ばかりで、電車から降りようとしたのは僕だけだった。そんな事まで気にしている自分が、今度はもう本当に見えなくなってしまい、誰かに「はい。僕はダメです。」と言わないといけないような気がして、電車を降りる瞬間、思わず「空き箱」とつぶやいていた。
電車を降り、僕はそのあまり馴染みの無い土地を歩き出した。駅前は少し人もいたけれど、ちょっと歩くと全く静かで、さっきの電車のラッシュがウソのようだった。フェンス越しに少年野球場らしいグラウンドがあり、僕はフェンスに触れながら、ホームを見つめながら歩いた。
フェンスの中に一カ所、手に触れる感覚の違う所を、僕は見つけた。見るとそこだけ、錆がきれいに無くなっていた。僕はポケットから黄色のビニールテープを出し、そこをきれいにぐるぐる巻きにした。(僕はいつも、気分が落ち着かないとき、ビニールテープを少し切り、手のひらの真ん中に貼ると言う癖があり、いつもポケットに持ち歩いていた。)
空は曇り、明日の雨を待つ緊張感に満ちた木々やアスファルトや信号に、僕は少し何かをごまかしたいような気持ちになり、パン屋に入って菓子パンを買い、駅までの帰り道を食べながら歩いた。パン屋の袋には、「パンの日」と印刷されていた。
ポケットの中の黄色のビニールテープは、いつの間にか無くなっていた。
パンの日
その日は思いがけず、「パンの日」になった。パン屋の梯子をしたのだ。私は多分、イメージに弱いのだ。
夜梅田から上本町まで行くことになり、地下鉄に乗る前に「おなかが空いたらパンでも買ってどこかで食べよう。」と思ったのがそもそもの始まりだった。地下の食堂街は閉まり初め、やっと一カ所閉まる直前のパン屋でパンを買い、そのままどこか食べるところを探そうと思い外に出た。外に出ると御堂筋が見え、「ああもうこのまま御堂筋を歩いて、疲れたら途中で電車に乗ろう。」と思い、春の土曜の夜をスキップしながら歩く人達の間を難波を目指してひたすら歩いた。女の子が、一人で御堂筋を歩いてるのも、そんなに珍しくもないやろう。
歩きながら、私は何となく「パンの場所」、を選んだ。最初は、中之島の橋の上。次は、本町のビルの背中。閉店前のセールをしているパン屋に寄って、パンを食べる場所でパンを食べ、と言うのを繰り返した。とうとう難波まで来ると、今度は千日前線に左折した。もう上六まで歩いてしまおう。最後のパンの場所の二つは、国立文楽劇場の向かいの葉桜の下と、松屋町筋との交差点にかかる歩道橋の上、となった。
私が「女の子である。」と言うのはこんな事なのかもしれない、と、私は最後のパンを食べながら思った。
御堂筋を歩いているとき、私は披露宴の二次会帰りらしい団体を見た。正装をして、手には白くて大きな紙袋を持ち、赤い顔をした人たちが、盛んに舗道の真ん中で写真を取り合っていた。いつも真ん中に囲まれる花嫁さんらしい人と対照的に、ずっとさりげなく写真に写るのをさけている女の人がいた。周りの人は気が付かないようだったが、私にはなんとなくその人がさけているのが分かった。
そしてその中の誰かが突然、「ジュンコばんざい!」と叫び、その声は合唱となった。その響きは私が通り過ぎた後も、いつまでも続いていた。そのこだまは、春の御堂筋に、確実に何かを呼んでいた。
その日からしばらく、私はあの日私と御堂筋に「パンの日」と「花嫁」をもたらした何かは何だったんだろうと考えていた。私はふと、
「それはきっと『映像ゲリラ』だ。」
と思った。もちろんそれは思いつきの言葉で、そんな事を考える自分を少しおかしいようにも思ったが、なんとなくそれは間違いないように思われた。
私はインターネットの検索ページを開き、”映像ゲリラ ”と入力した。
”検索結果 (検索キー;映像ゲリラ)1件がデータベースと一致しました。そのうち1件を表示しています”
私はしばらく、そのページを開けようかどうかを迷った。
鼻が低い太陽のはなし
「人の心は、手の平とおなかにあると思うんだ。手の平がおなかに触るのは−ここに居てはいけない−と感じる時で、で、おなかが手の平に甘えるのは・・・。」
ホームページの画面いっぱいに映った、人のおなからしいものの映像は、突然そう話しかけてきた。
「そこは片思いの肌のように静かで平らで、息苦しかったんだ。」
声の主は、話を続けた。
「僕は−時間−と言うのは海底からボコッと浮かび上がっては海面で七色に消えていく油の泡のようなものだ、と思うんだけど、そこは・・・。」
彼は少し黙った。
「例えばふとつぶやいた名前に、(漢字の力って大きいと思うんだけど)ごろん、と僕を持って行かれて、そしておなかのあたりが痛くなる、そしてそれから光に対する体の防御が効かなくなり、目を開けていることが出来なくなる、そこはそんな・・・。」
「その日は満潮で、」
私はいつの間にか、彼に話しかけていた。
「その日は満潮で、ほんの少し、海面が遠かっただけなんじゃないの?」
映像ゲリラ、の彼は次にこういった。
「鼻が低い太陽のはなしをしようか?」
昔むかしある宇宙に、人間になりたい太陽がいて、
まずは息をするために、
自分の体に小さな穴を二つ、
開けました。
今まで自分の光が眩しくて何も見えなかった太陽は、今度は
−全ての色が知りたい−
と思い、自分の火を全て消してしまい、
そして死んでしまいました。
昔むかしある惑星に、
ある光だけを信じて生きている少年がいました。
ある日ある人が少年にいいました。
−光は旅をするのだから、
その光を生んだ星なんてもうとっくに
死んでしまっているんだよ。−
それを聞いたその日から、少年は恐ろしい
−映像ゲリラ−
になってしまいました。
少年はやがて神様に捕らえられました。
−光の記憶だけを持ち、旅を続けるあなたへ。
本当はあなたが夏で、太陽なのに。−
左のポケットに神様からもらったメモを入れ、
やがて少年は普通の生活に戻って行きました。
ところが少年の右のポケットには、ずっと前から、
本人も知らないメモがありました。
−太陽が実は一番欲しかったのは、
自分の気持ちを伝える、
言葉、
だったのに。−
「僕が映像ゲリラになったのは、君のところにすぐに、飛んでいきたかったか・・・。」
私は素早くインターネットの電話回線を切り、そしてコンピューターの電源を切ってしまった。
彼が映像ゲリラであったことを忘れて・・・。
終
−光の記憶だけを抱いて、旅立つ、あなたへ−