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大阪 膝から小魚

 僕は旅のトイレ商人だ。そんな地味な仕事をしている僕が今、南半球警察に追われている。僕を捕まえるのは、はっきり言って難しい。僕は旅人だし、逃亡はもともと趣味なのだ。10歳の時、町のある子供大会で僕は優勝した。隣町との勝負に連れて行かれるバスから僕は初めて逃亡した。僕はただ付き添いのおばさんの顔の変化が見てみたかったのだ。もちろん僕はすぐにバスに戻り、大会ではそこそこの成績をおさめた。ただ逃亡の願望だけはそれからずっと消えることはなかった。

今日一日は、この町にいても大丈夫だろう。僕は電車に乗った。向かいの紳士が言った。「もう歩き疲れて、今やったら膝から小魚を出す芸とかできそうや。」周りの友人らしい人たちは笑った。僕には僕のことを笑ってくれる友達もいないのだ。南半球に追われるほどの罪人になってしまったのだから。僕は住宅街の中の駅で降り、ある家の屋根に耳をつけた。屋根というものには、不思議な伝達能力がある。「トイレの夢買います。」僕のメッセージは、町中に広がる。いつもだいたい、屋根と屋根の間からおせっかいなおばさんが顔を出す。そして行くべき場所を教える。今回は、か細い少年が顔を出した。「僕の妹が見る怖ろしい夢を、すべて買い取ってしまってくれないか。」僕はいきなりの申し出に不機嫌になり、こう答えた。「僕は基本的にトイレの夢しか買わないんだ。金持ちになる暗示だからね。高く売れる。それ以外はお断りだ。」少年は言った。「僕には彼女が見る夢の詳細は分からない。中にはトイレの夢だってあるだろう。あんなに苦しんでいるのだから。ただトイレの夢だけではなく、すべてを消してやってほしいんだ。」「じゃあ見るだけ見せてもらうよ。」と言って僕は彼の住む家の住所を教えてもらった。家族の申し出なんて大概ろくなものがない。ただ僕は明日にはこの町を出なければならず、一つくらいは仕事をしておかないといけないのだ。

僕は少女の夢を覗いた。彼女が見ていたのはトイレの夢などではなかった。彼女は夢の中で、壊れたスピーカーにずっと耳をあてていた。僕はそのスピーカーを直してやり、兄の夢を少し買った。兄弟はしばらく蒼い顔をしていた。僕は町を出た。

 

長崎 春雨通り

 新しい町で僕は教会の屋根に耳をつけた。すると初老の紳士がにょきっと顔を出した。「君は南極に行ったことがあるだろう。」と、紳士は言った。僕はしまった南半球警察かと思ったがどうやらそうではなかった。「君は氷の匂いがする。氷に住む微生物の匂いだ。これは長い間南極やどこかに住んでいなければ分からない匂いだがね。所で今夜は春雨通りあたりに行くといいだろう。」氷に匂いなどあるのかどうかは分からないが、とにかく僕は春雨通りへと向かった。果たしてそこにはたくさんの夢がころがっていた。幾人かから夢を買い、そして僕は次に行く町のことを考えた。そんな匂いを発しながら歩いているようでは、すぐにここも突き止められてしまうだろう。それにしても今までそんな風に言われたことは一度もなかったのに。僕はもしかして南極が恋しくなってきているのかもしれない。

 そんなことを考えていると、海の向こうで赤い光が光った。しまった。見つかってしまった。僕が寝ている屋根の下を、幾人かが取り囲んでいる。なぜここが分かったのだろう。やはりさっきの紳士だろうか。考えながら、僕は屋根の上を走った。ここは台風を経験していて、屋根の上に幾筋かの道が出来ている。風の通り道を長崎の人は知っている。屋根がその事を教えてくれる。僕は必死で逃げた。僕はそれでも人間なので、走るしかなく、黒い影か後ろに見えたと同時に列車に飛び乗った。もう捕まるのも時間の問題だ。

 10年前、僕は南極へ行った。そこはもう立派な町になっていて、僕はしばらく夢の買取りのためにその町に滞在した。寒い地方の夢は質がよく、高く売れるのだ。僕はある小さな家に立ち寄った。そこには老婆が一人で住んでいた。僕は一通り夢の話を聞き、幾つかを買い取る約束をした。ふと隣の部屋をみると、天井に何かが貼ってあるのが目に付いた。老婆は僕がそれに気がついたのに慌てて、「では今日はもうお引き取りください。」と言って慌てて僕を追い出した。その夜僕は老婆の家に忍び込んだ。夢買いの仕事をしているのだから、人の家に忍び込むのなんてわけはないのだ。天井の紙には大きく、「逢いたい」と書かれていた。僕はそれを引きちぎり、その家を出た。次に僕はその町の教会へと向かった。そこにはいつも町の人が誇りにし、信仰の対象にしている美しい花の結晶があった。町で何年かに一度咲いた美しい花を、町の人が永久保存のためにと結晶化したのだ。氷になった花はもろかった。僕はそれをこなごなに踏み潰してやったのだ。何故一日にそれだけの事をしてしまったのかは自分でも分からないが、とにかく僕はそれから南半球警察という大仰なものに追われる羽目になってしまった。

 

東京 晴海通り

 僕は買いためた夢を売るため、東京にやってきた。僕は逃亡の天才だけれど、実はとても方向感覚が弱い。だからこの町に来た時はいつもまず東京タワーを目指す。そして東京タワーにメッセージを発信してもらう。「夢を買いませんか。」今日はまず女子大生らしい女の子がやって来た。「僕が売るのは金持ちになるためのトイレの夢だけだよ。」と言うと彼女は目をきらんと光らせ、残念そうな口調でこういって1ダースほどの商品を買っていった。「残念だけど、一応いただきます。」次に来たのは、小学生くらいの男の子だった。「僕は逃げたいんだ。どんな悪夢だって我慢するから。」僕は一番寒い地方で買った上等を少年に売った。今日来た客はそれだけだった。

 僕にこんな商売を許すのだから、関東平野の鬼は懐が深い。でもそういえば、僕は一度も富士山と言うものを見たことがない。いつも天気や、移動中でも睡眠なんかで、うまくごまかされてしまう。僕は結局、どこにも居場所というものがないのだ。

 僕にトイレの夢を売って生きていく事を提案してくれたのは此処の土地の人だった。「怖い夢を見ても、それはきっといいことがある前兆だから、怖がらなくてもいいんだよ。トイレの夢、だって、それはお金持ちになる印だ、って、よくいうでしょう。」トイレの夢を売り買いしろ、とは言わなかったっけ。まあ、どっちでもいいのだけれど。長崎よりも大阪よりも実は坂が多いと言うこの土地の、彼女はいつも窪みにいた。屋根に登って、僕はいつも彼女の事を探していた。そして彼女は、ある日どこか知らないところへお嫁に行ってしまった。僕がこんな商売をずっと続けているのは、心のどこかで彼女の事を探しているからなのだ。東京タワーの明かりは、僕にそんな事を考えさせた。そろそろ消灯の時間だろう。あと一日ここにいて、また新しい土地を探そう。

 翌朝、僕はとうとう捕らえられてしまった。不思議な事に、僕を捕まえたのは南半球警察の奴らではなかった。あの町はもうとっくに滅んで、警察組織も再編され、昔の逃亡者など黙殺されてしまったらしい。では今まで僕を追いかけていたあなたは誰なのですか、なぜあんなに執拗に何処に行っても赤い光で追いかけてきたのですか。男たちはその質問には答えず、変わりに可愛らしい少女を彼らの背後から招き出した。

「私はずっと、あなたを探していたのです。私はあなたが南極で引き裂いた花です。いえ、恨んでいるのではありません。私は花でありながら死ぬ事が出来ず、ある家であの世へいくことができる日の事を待ち望んでいたのです。あなたがあの時私が書いた願望に気が付いて下さったおかげで、私はこうして自由の身になる事が出来たのです。」

彼女は何を言っているのだろう。彼女の夢は死ぬ事で、その願いが叶ったから僕の夢も叶えてくれたのだという。10年も僕を探し続けて。と、言う事は、僕はもう死んでしまったのだ。東京タワーの残像と一緒に。                 終