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すもももももも笑った

 「月夜はね、あの人なんです。」老婆は言った。彼女はある気象士の所に来ていた。「あの人、がいったい誰なのか、何処のどんな人なのか、実はよく私にも分からないのですけれど、とにかくね、月夜は必ず、あの人、を想うのです。あの人が誰なのか、なぜ月夜なのか、とにかく何も分からないままただ息苦しくて、私はもうおかしくなってしまいそうなのです。あの、お願いなのですが、どうか月を、降らせてはくれませんか。」気象士は黙ったまま冷蔵庫に向かい、そして中からマヨネーズのチューブを取り出し、ふたを回してはずし、老婆の頭の上からにゅるり、としぼりだした。老婆はそのまま部屋を出た。その後老婆の姿を、見たものはなかった。

 しばらくして町におかしな現象が起こり始めた。雨上がりからすこし時間がたった道路や土の道に自転車の轍が出来ると、そこからかばの幻が現れて人のお尻にかみつくのだ。幻だから痛くも重くもないし、だからバスの座席に座るのだって不都合はないのだけれど、ただ泣いているような目をしたかばの幻が町を行く人のお尻に噛み付いている、という事態はやはりかなり人々を混乱させた。どうやら自転車の轍が発生源らしい、という事がわかるととりあえず自転車で水溜りを踏まないように、土の道は自転車で通らないように、などの注意が呼びかけられた。それ以上の解決策は見当たらず、涙目のかばの幻の数は日を追うごとに増えていった。

 ある日ある少女があるうたを彫り込んだタイヤのついた自転車で水溜りをよぎった。にゅるりと出て来たかばのまぶたにすかさず、初老の紳士が手を当てた。かばは泣いてはいなかった。紳士はかばに話し掛けた。「月夜に外を歩くとき、あなたがどんどん歩くと月もぐんぐんついて来るでしょう。つまりね、月はあなたの影なのです。月があるところが、あなたの居場所なんです。あなたは世界のどこにだって行く事が出来る。自分の自由に、ただ気がついただけのことなのですよ。」紳士が話を終えるか終えないかの所で、かばはすでに姿を消していた。あとには轍のうたがのこされていた。

 

息を吸い、 

 息を吐いたら

 曇天ビン

 空にほり投げ

 あなたの許へ